心の道行き日記

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6月2日は本能寺の変の日&織田信長が自刃した日です。「吾が敵は本能寺にあり」本能寺の変の謎?

本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。

 

 

信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。
信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。

 

2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返し畿内に戻った羽柴秀吉山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。

 

信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。

 

 ☆彡本能寺の変の謎?

光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。


変の要因については、江戸時代から明治・大正を経て昭和40年代頃までの「主流中の主流」の考えは、野望説と怨恨説であった。


「光秀にも天下を取りたいという野望があった」とする野望説は、謀反や反逆というものは下克上の戦国時代には当たり前の行為であったとするこの頃の認識から容易く受け入れられ、古典史料に記述がある信長が光秀に加えた度重なる理不尽な行為こそが原因であったとする怨恨説と共に、史学会でも長らく揺らぐことはなかった。


『夜、大江山を渡り、老坂に至る。右折すればすなわち備中に赴く道なり。光秀すなわち馬首を左にしてはす。士卒驚きあやしむ。すでに桂川渡る。光秀すなわち鞭を上げて東を指さし、ようげんして曰く、「吾が敵は本能寺にあり」と。衆初めて、その反を知る』日本外交史より

 

★織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。
尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。

尾張守護代織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦い今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。

足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。

しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。


明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
戦国大名織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。

直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したともされる。

これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。

 

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